Film log

そういうところです。

Green Book


ずっと気になってた映画がオスカーを獲ったので期待値も大幅にアップしていたのですが、それでも凄く良い作品でした。
ちゃらんぽらんなイタリア人のトニーと、真摯な黒人ピアニストのドク。奇抜な展開ではないけれど、正反対なコンビが徐々に打ち解けて掛け替えのない存在になっていくストーリーは、いつ見ても心温まります。
トニーの奔放な振る舞いに困惑したり、叱責したりするドクが本当に可愛いらしい!トニーは永久に何かを食べていて、ピザを丸々一枚半分に折りたたんで齧り付くシーンがあるのですが、あれは一度やってみたい。
本作は特に黒人の差別がストーリーの大きな鍵になっていますが、差別的な考えを持っていた人間が考えを改めることを偽善と言うならば、いっそ一度人類を滅亡させて新しい文明に期待するしかないとは思いませんか?
映画館でみんなが声を上げて笑う雰囲気が本当に好きで、全然知らない人がけらけら笑ってる声を聴くと作品も3倍くらい楽しくなりますね。

女王陛下のお気に入り






17世紀イギリスを舞台に、2人の王室付きの侍女がアン女王のお気に入りの座を巡って繰り広げる、愛と欲望が交錯する歴史映画。

主要な登場人物は3人の女性。アン女王、その幼馴染であり王室の女官として最高地位に立つサラ、そしてサラの従兄弟にあたり、ある日職を求めて宮殿を訪れたアビゲイル
上流階級の生まれながらも父親の所為で一変、転落した人生を送っていたアビゲイルは、アンとサラの間に肉体関係がある事を偶然知ってしまう。そしてそれは、再び高貴な身分を取り戻す為の「勝利への手段を選ばないゲーム」のきっかけとなってしまったのだった。

わたし達は何か目的に向かって進んでいる時、"あたかも周りの人間も自分と全く同じ目的を目指すライバル"かのように感じることがある。それは、わたしが中学生の時に、友達のAちゃんより良い点数を取りたくてムキになっていた時の気持ちと似ている。例えAちゃんはテストの点数に全く興味がなかったとしてもだ。
アン女王というのは、実のところあまりイギリス国内でも有名ではないそうだ。イギリスが連合王国となって最初の女王こそ彼女なのだが、生涯で17人もの子を身篭ったが、12回の死産、流産を経験し、残りの子も幼くして亡くしているという悲しい経歴を持っている。この劇中でもアンは失った我が子と同じ数のうさぎを自室に飼い、哀しみを埋めるように愛情を注ぎ続けている。
そんな、自信がなく塞ぎ込みがちであったアンに対して厳しく接し、政治への支持も抜かりのないサラと、反対にいつも優しい言葉で慰め、そっと寄り添うアビゲイル
一見して彼女達は、女王のお気に入りという立場を奪い合うという、同じゲームで闘っているようにみえる。果たしてそれは本当にその通りだったのだろうか?

この映画の魅力は、絡み合う女性達の愛憎だけではない。
歴史映画、殊に王室となると、荘厳で堅苦しい外側のイメージが描かれがちだ。ところが、この映画の3人の女性は愛し、悩み、妬み、憎み…まるで現代の女性と変わらないかのように感情豊かで、男達を知恵で翻弄する。
映像面においては、他の映画では省略されるような中世の所作を再現している反面、貴族達の剥き出された虚栄心を皮肉的に描き、ダンスはオリジナル、美しいドレスたちはデニム生地などを用いて大御所の衣装デザイナー、サンディ・パウエルが手掛けている。過去の時代のストーリーながら、現代を見ているかのような演出だ。歴史と現代の美しい融合を、スクリーンでたっぷりと堪能する事が出来た。

舞台「マニアック」

大阪の森之宮ピロティホールへ、今年初観劇。

主演は関ジャニ∞のギタリスト、安田章大さん。共演者は古田新太さんをはじめ日本の俳優さんに疎い私でも分かるほどの錚々たる顔ぶれで、チケットを手に入れることができたのは本当に幸運だった。

 

ストーリーは、古い精神病院へ植木屋の仕事で訪れた主人公アキラと、偶然にも帰郷していた院長の娘メイの出会い、そして院長が隠蔽していた病院の悪行について描かれている青春音楽劇。

2年前、安田さんが演歌歌手を目指す青年として主演した「俺節」という舞台を観てからというもの、すっかり舞台上の安田章大の虜になってしまった私は、今回も1公演だけとはいえ目の当たりにすることが出来たのは本当に僥倖だとおもう。

座長である安田さんの歌唱力が高いことは言わずもがなであるが、特筆したいのはその表現力。何と言ってもドラマティックだ。

人間の感情はここまで自然とあふれ出すものなのだろうか。おさえつけられた感情の苦しみとは、数メートルの距離を伝わって緩やかに人の心を締め上げるものなのだろうか。決して押し付けるようなものでもなく、すっと沁みて侵食してゆく。

一度きりしか聴いたことのない歌を、痛みとともに何度も反芻してしまう。

そんな歌を聴かせてくれる。

 

実のところ、今回のストーリーはとてつもなくしょうもなく、端的に言うならば不謹慎で破廉恥。色んなパロディが混ざり合って、判ると嬉しいし楽しい。

こんなにはちゃめちゃなストーリーでしっかりと殺陣を組み込んでいるところも、説得力がある様でちぐはぐな様で面白いなと今になって思う。

こういうしょうもなさと独特のシュールさが、舞台ならではの魅力なのだなと感じる。映画のようにリアルなセットやCGがない、狭い、人間だけが本物の世界。

 彼らが肌で生み出していく空気と一体になることが出来たとき、人は「面白い」と感じる。本気の気持ちがこもった歌、演技、殺陣、これらが生み出す覇気が、コメディのシニカルさを生んでいるのだろう。

 

舞台は、1度きりしか見ることが出来ない。たとえ同じ演目のチケットを複数枚取ったとしても、今日の舞台は今日しか見ることは叶わないのだ。

ましてや、当然だが、映画の様に数年後にもう一度…などということは不可能だ。

何が言いたいかというと、自分が作品を見て感じた気持ちは、永久にアップデートされないということ。記憶の中で何度も反芻されて、アコヤガイの中で真珠が長い時間をかけて大きく美しく形成されるように、作品が何物にも代え難いものになっていくということ。

以前、SNSにて”「わからない」という方法”(橋本治著)という本の一節が紹介されていた。著者は、「以前良いと感じたものを今見ても良いと感じるのか、確認する作業をしなければ人の感性は老いてしまう」というような事を述べているが、私はいつか過去という貝殻の中で育ってしまった大きな真珠が本当に真珠なのか、向き合って確認できる日が来るのだろうか。

 

 

Mary Poppins Returns

おそらく、わたしが人生で一番見た映画はMary Poppinsだと思う。
子供時代、となりのトトロといい勝負で毎日のようにビデオを再生していたから、すっかりテープも延びていることだろう。
この感想を書くにあたって、前作の制作が1964年だと知った私は、あまりにも驚いた。何故なら、子供時代の私にとっては作品の中の何もかもが産まれたてのような輝きをもっていたからだ。
魔法で部屋を片付けるシーン、絵の中へ入っておめかしをして楽しむシーン。特に階段の手すりに座ってエスカレーターのように登っていくシーンが好きだった私は、家の階段で妹と一生懸命に練習した事も思い出深い。(もちろん魔法なんて使えないから、強引に腕力で登るのである!)
とにかく私は、Merry Poppinsにここまで大きく育ててもらったと言っても過言ではない。

ところが、本作を観ていて懐かしいなぁと感じた途端、私は急に寂しくなってしまった。あの子供時代にひたすら感じていたワクワクしたものが、現在ではなく過去になってしまったことに気づいたからだ。
私が好きな俳優がマイケルを演じているのを見て「可愛いなぁ」と思ったり、ジェーンの衣装が素敵だなぁと観察したり、前作のオマージュにクスっと笑えたりする。こういった見方というのは10歳に満たないような子供には出来ないものだ。
勿論、こう言った見方が悪いと言っているわけではなく、様々な見方が出来るからより映画が面白く感じる、というのは事実である。
ただ、真っ白なキャンパスに突然インクをぶちまけるような、空っぽの脳みそに与えられる衝撃はもう得られないのかと思うと、私は知らない間に子供を終えて大人にしまったのだなという、失ったものへの感傷だけが虚しく残るのだ。

私の風船はまだ空に連れて行ってくれるのだろうか。